雨の日の利用者
あれはもう20年近くも前のことです。
私はタクシー運転手になってまだ数か月の新米でした。
その日は、朝から雨が降っていて「歩くよりタクシーに乗ってしまえ」という人が多かったので、普段より多くのお客さんを乗せることができました。新米にとってはうれしい雨でもあったのです。
夕方近くになって1人のお客さんを郊外のその人の自宅まで送りました。慣れていない地域でしたが、親切なお客さんだったので丁寧に道を教えてくれて迷うことなく目的地に着くことができました。そこは周囲を畑に囲まれたような田舎でした。
お客さんを乗せた距離も長かったので、それも含めて結構な稼ぎにはなったのですが、私は都心に戻るときもお客さんを乗せられたらうれしいのになと考えました。
季節外れの身なり
とは言え、人の少ない郊外なので、道を歩いている人なんて全くいません。「もし、誰かを拾えればラッキー」くらいの気持ちでタクシーを走らせていました。
ところが、そんな道で私のタクシーを見つけ、手を挙げた人がいたのです。
私はその人の横にゆっくりタクシーを停め、後部座席のドアを開けました。乗ってきたのは黒い背広を来た50歳くらいの紳士でした。違和感を覚えたのは、秋だというのに夏物の背広を着ていたことと、雨が降っていて傘も持っていないのに濡れていなかったことです。
その紳士が「駅まで」と言うので、私は不思議に思いながらもタクシーを発進させました。そこから最寄りの駅まではおよそ20分くらいです。
やがて駅が近づいてきたので「駅前で良いですか?」と声を掛けました。するとその紳士は「いや、もう少しこのまま行ってください」と言います。
異次元
私は腹の底に何やら重苦しいものを感じたのですが、指示通りにそのまま走りました。
道はまた周囲を畑に囲まれた田舎道になりました。やがて雨もひどくなってきました。
そうして駅から10分ほど走ったところで、小川にかかる橋が見えてきました。すると紳士は「そこで停めてほしい」と言います。
いよいよおかしな話ですが、乗客が停めろと言うのを無視するわけにはいけません。私はタクシーを停めました。それから紳士に乗車賃を告げると、その金額を払ってくれました。
それで「ありがとうございました」と言おうと、改めて後ろを振り返ると、乗客の姿がありません。私はこの雨のこと、紳士が降りたところで足を滑らせたかもしれないと思い、タクシーを降りて周囲を探しました。それでも影も形も見えませんでした。
これで座席が濡れていたりしたら、とんだ怪談話なのですが、私はお金もしっかり受け取っているので、確かに紳士は実在したのです。まさに異次元に消えたとしか言いようがありません。