乗ってきた不思議な紳士
私はタクシー会社に正社員として就職し、タクシー運転手となって20年以上の経験を持つ、自分で言うのもなんですが、ベテランドライバーです。職業としてメリットもデメリットもありますが、休日もたっぷりあり、年収も満足いくだけ得ています。
ただ、それだけタクシーを運転していろいろな場所へ行っていると、ときには奇妙な体験もします。
それは2004年の暑い夏の日でした。私はS区を流していて1人のお客様を乗せました。
そのお客様は、とても時代がかった服装の紳士でした。中折れ帽を目深にかぶり、お顔はよく見えなかったのですが、年齢は50代だと思いました。
洋服は上等な三つ揃えで、股上が深く、とても現代の仕立てとは思えません。一瞬、映画かドラマで戦前の物語を撮影していて、その出演者かと思ってしまうほどでした。
さて、その紳士は座席に腰を落ち着けると、おだやかな口調でM区のある場所を指定しました。M区は私も行き慣れていて、裏道も知り尽くしているという自負がありました。
まるで戦前の風景
やがて紳士が指定したあたりに来ました。そこで紳士が、交差点を左折するよう指示したので、言われる通りにハンドルを切りました。私の記憶では、高層マンションが立つ住宅街に入っていくはずでした。
ところが、角を曲がったとたん現れたのは、まるで戦前の街を思わせる光景だったのです。
住宅はすべて瓦屋根の木造で、点在する商店も魚屋、肉屋、金物屋など、昔懐かしい個人店です。もちろんコンビニなんてありません。それだけではなく、歩いている人も見るからに戦前の人たちで、女性はほとんど着物でした。
その通りのはずれに来ると、紳士がタクシーを止めろと言うので、紳士をそこで降ろしました。支払いは夏目漱石の千円札で、おだやかな口調で釣りはいらないと言い残して行きました。
キツネにつままれた、とはこのことを言うのでしょうか。次の角を曲がると、そこはまた見慣れた街並みでした。さっき見た光景を確かめたくて、そのままタクシーを走らせ、さっき曲がった角に戻り、また左折しました。しかし、そこにあったのはモダンな高層マンションが立つ住宅街だったのです。
あの日、私が見たのは一体何だったのでしょう。